東京近代水道125年史
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10. なお、平成11(1999)年度に局内で検討・整理を行った結果、三郷浄水場については、前期事業(110万㎥/日)完成後、将来需要を踏まえたとしても当面必要としないことから、前期事業をもって整備計画を完了することとした(『東京都水道施設整備事業誌(昭和61年度~平成11年度)』)。第一章 東京水道100年の概観29第2項 水源開発の長期化と需要抑制1 水源開発の長期化と需要抑制(1)水源開発の長期化 昭和37(1962)年のフルプラン決定以降、都関連の施設では矢木沢ダム(昭和42(1967)年)、下久保ダム(昭和43(1968)年)、利根川河口堰ぜき(昭和46(1971)年)が完成したが、その他の施設については、草木ダムを除いて完成の見通しが全く立たない状況であった。 利根川河口堰ぜきの完成により、都の水利権量は約470万㎥/日となったが、夏期需要量を満たすには程遠く、利根川水系の余剰水や多摩川系貯水池等を活用することで苦境をしのいでいた。 こうした中、昭和45(1970)年には、カシン・ベック病との関連の疑いから、調布取水堰せきから取水している玉川浄水場の運転停止を決定した。さらに昭和47(1972)年5月から7月にかけて、利根川水系で大規模な渇水が発生し、利根川水系からの取水制限が課されたことから、6月24日に都は10%の給水制限を、7月5日には15%の給水制限の実施を決定した。 先行き不透明な水源確保の見通しに加え、利根川の原水を導入して以来初となる利根川での渇水に見舞われ、余剰水はもちろん確定水源さえ取水制限されるという事態に直面したことで、都の危機感は頂点に達した。 このため、水源不足を補う緊急対策事業として、昭和48(1973)年から昭和55(1980)年にかけて第四次利根川系水道拡張緊急対策事業(事業の概要については前節に記載)を実施した。(2)需要抑制 また、昭和47(1972)年7月、当局は「都民の水を確保するために」を提言し、この中で重要施策として取り上げた水の合理的使用に着目して、翌年1月10日、「水道需要を抑制する施策」(提言)を発表した。これは、国や東京都などの関係機関に理解・協力を要請するとともに、広く都民にも節水の必要性を訴えたものである。 需要抑制の理念は、その後、国の政策にも取り入れられるところとなり、昭和52(1977)年の水道法改正では国及び地方公共団体の施策として、更に国民の義務として、新たに水の合理的使用が課せられた。また、厚生省を中心に6月第1週に行われていた水道週間に加え、昭和52(1977)年度から国土庁(現在は国土交通省という。)においても8月1日を「水の日」と定め、水資源の有限性を訴えるなど、水に対する意識変革に前向きの姿勢を強めた。 需要抑制の効果は、その後の石油ショックの影響もあるものの顕著に現れ、昭和51(1976)年度に、東京の近代水道の給水開始以来初めて前年度の配水量を下回った。2 第四次利根川系水道拡張事業計画の見直し 既述のように、昭和47(1972)年の第四次利根川系水道拡張事業開始時点では水道需要の更なる増加が見込まれたほか、水源開発の遅れによる水源不足、利根川水系での大規模な渇水など、都における水需給のひっ迫が顕在化していた。 しかし、昭和48(1973)年のオイルショックとそれによる経済の不況等により、水道需要はかつてほど急激な伸びを示さなくなっていった。このため、水道需要に対応して昭和50(1975)年、51(1976)年、53(1978)年及び55(1980)年と水道需給計画を改定し、施設増強の計画年度の繰延べを逐次行ってきた。さらに、昭和56(1981)年の水道需給計画の改定では、繰延べによって事業の計画期間が長期に及ぶことから、この事業を前期事業(施設能力110万㎥/日分の増強)と後期事業(施設能力110万㎥/日分の増強)とに分けて実施することとした。 三郷浄水場の新設について、前期事業では、昭和60(1985)年度に第一期(55万㎥/日)、昭和65(1990)年度に第二期(55万㎥/日)の通水を目途として整備を進めることとされ、第一期については昭和60(1985)年6月に完成し、通水を開始した。また第二期については、昭和61(1986)年に事業の枠組み等の見直しがなされたことを受け、後述する浄水施設整備事業に組み込まれ、引き続き実施された10。 送配水施設については、前期事業で水元給水所、練馬給水所、三郷線、北部幹線及び東南幹線の一部(江戸

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