東京近代水道125年史
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28第一章 東京水道100年の概観問題はその後も異臭味や微量有機物質等、一層多様化していった。東京都では昭和47(1972)年ころから、江戸川系の金町浄水場で水道水のかび臭苦情が寄せられるようになった。 また、精度の高い分析機器の開発や分析技術も向上して、トリハロメタンやトリクロロエチレン、あるいは各種の農薬など公共用水域や水道水中の微量有機物質の存在が報告され、人体への健康影響などが論議されるとともに浄水処理の高度化に関する研究が盛んとなった。 さらに厚生省(現在は厚生労働省という。)は、将来にわたって信頼できる安全でおいしい水道水を供給するという観点から、平成4(1992)年12月に、水道水質の基準項目を26項目から46項目に拡大する等の全面的な見直しを行った(改正後の基準は平成5(1993)年12月に施行)。 この見直しにより、新たに消毒副生成物トリハロメタンが基準項目に追加されたほか、「快適水質項目」や農薬などの「監視項目」といった、水質基準を補完する項目が新たに設定され、より高い水準の水質管理が求められるようになっていった。 そして水道水源の水質保全対策を進めるため、国は「水道原水水質保全事業の実施の促進に関する法律」と「特定水道利水障害の防止のための水道水源水域の水質の保全に関する特別措置法」の二つの法律を制定し、平成6(1994)年から施行した。 この2つの法律ができたことにより、水質汚濁防止法などに基づく水質保全対策に加え、水道事業者の要請に基づく各種の水質保全事業の実施や規制措置が水道の原水に着目して行われる仕組みができあがり、安全でおいしい水の供給に大きな一歩を踏み出すことができた。3 地盤沈下対策と工業用水道事業 地下水の過剰揚水に起因する地盤沈下は、東京都では明治末期に既に始まったと言われ、その後第二次世界大戦終結時には一時的に止まったものの、戦後の急速な経済成長に伴い、再び激しくなった。 地盤沈下現象は東京都のみならず他の工業都市でも見られ、地下水用水規制と代替水の供給を求める声が高まったことから、国は昭和31(1956)年に「工業用水法」、昭和33(1958)年に「工業用水道事業法」を制定、地下水の代替水としての工業用水道供給の道を開いた。 東京都では、江東地区が昭和36(1961)年1月から、城北地区は昭和38(1963)年7月から工業用水法の指定地域となり、井戸の新設や地下水の用水が規制されることになった。 この間、学識経験者で構成する地盤沈下対策審議会での審議や地盤沈下調査等を行い、これらの調査に基づき事業計画を策定した。 東京都の工業用水道事業には、江東地区工業用水道事業、城北地区工業用水道事業の2事業がある。このうち江東地区工業用水道事業は昭和35(1960)年2月2日に事業決定を行い、下水再生水を水源として工業用水道の浄水場建設に着手した。この系統の南千住浄水場は昭和39(1964)年8月、南砂町浄水場は昭和40(1965)年5月、それぞれ給水を開始した。 また、城北地区工業用水道事業は昭和36(1961)年9月に事業決定を行い、利根川の表流水を水源とする工業用水道三園浄水場建設に着手し、昭和46(1971)年4月から給水を開始した。 給水開始後、地盤沈下は一時的に鈍化したが、昭和43(1968)年頃から再び沈下区域が拡大傾向に転じた。このため、既指定地域の用水規制を強化するとともに、新たに江戸川区及び荒川左岸地区を揚水規制区域とし、工業用水道の供給区域に加えた。昭和54(1979)年4月には、南千住浄水場の浄水を原水として活性炭によるろ過処理を行う実証プラントとして江北浄水場が建設されている。 しかし、その後両地区とも、工場の移転によって工業用水の需要が大幅に減少したため、江東地区では南砂町浄水場を昭和55(1980)年3月に廃止、城北地区でも昭和58(1983)年3月に三園浄水場施設の一部を工業用水道から上水道に転換した。 こうした取組と併せて、財政再建に向けた取組を続けてきたが、依然として厳しい財政状況が続いていたことから、平成9(1997)年4月には「工業用水道経営改善計画」を策定した。この計画に基づき、江東・城北の両地区の事業を統合し、需要量に見合った適正な規模としたほか、南千住・江北浄水場の廃止、料金体系の一本化、経年管の計画的更新等を通じて工業用水の安定供給を図っていくこととした。

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