東京近代水道125年史
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第一章 東京水道100年の概観27乱物価、同年12月の美濃部知事による水道料金等公共料金値上げ凍結発言による料金改定見送りにより、赤字規模は増大し、昭和50(1975)年度末には累積赤字が1,000億円にも膨れ上がることが予想される事態となった。 景気の低迷に伴い一般会計の財政も悪化したことから、当局に対する財政措置も昭和49(1974)年度限りで打ち切られることになり、淀橋浄水場跡地の所管替え代金として一般会計から約693億円を繰り入れることで料金改定率を圧縮したものの、昭和50(1975)年6月には改定率168.13%という大幅な料金改定案を提案した。議会での審議の結果、改定率が159.57%に修正されるとともに、「低所得世帯層等特に必要と思われるものについては、特別の減免措置を講ずるべき」という付帯決議が付された上で、7月16日に議決された。 この料金改定により、ようやく水道事業財政は危機を脱する見通しが立った。第1項 水質悪化と地盤沈下への対策1 高度経済成長に伴う水質の悪化(1)河川水質の悪化 昭和30年代に入ると、東京都への産業、人口の過度の集中により、騒音、大気汚染、水質汚濁などの公害が発生するようになった。特に、水源のほとんどを河川に依存する東京の水道にとって、原水の汚濁は、清浄な飲料水を確保する上で、何よりも脅威となった。 国も、「公共用水域の水質の保全に関する法律」及び「工場排水等の規制に関する法律」の施行と同法に基づく水質規制といった措置をとったが、実効性があるものとは言えなかった。 こうした中で、多摩川下流においては、調布取水堰せきに舞う洗剤による発泡現象や、玉川浄水場の原水とカシン・ベック病との関連が問題となり、水質に対する都民の不安が広がった。 後者に関しては、都民感情を考慮し、昭和45(1970)年9月28日に玉川浄水場の取水を停止、翌月に玉川系水道水質調査会を設置し、原水の取水基準の設定及び玉川浄水場における浄水の管理基準の設定について答申を求めた。 昭和47(1972)年3月には、原水とカシン・ベック病との因果関係解明には更なる実験が必要としつつ、仮に病因物質があると仮定しても、活性炭処理による除去が可能である等の結論が示されたが、100%安全という保障がない限り常時水道として供給すべきでないと考え、玉川浄水場の取水停止継続を決定した。 一方、利根川でも、昭和45(1970)年ころからフェノールなどの臭気事故が連続して発生しており、昭和45(1970)年1月、都は、利根川水系の水質保全を図るため、関係行政機関に対し水域指定、水質基準の設定、工場排水等排出物取締り強化を要請する等の水質汚染対策を決定した。 また同月中には、厚生省の助言により、利根川水系の表流水を取水する水道事業者で構成する利根川系水道事業者連絡協議会(現在は「利根川・荒川水系水道事業者連絡協議会」という。)が設置され、利根川水系の水道事業者が共同して水源監視などの自衛策を講じるようになった。(2)水質センターの発足 こうした状況を踏まえ、当局でも水質検査態勢を強化するため、水質担当副主幹の設置や水質試験車の導入配備等を行ったが、より体制を強化するため、昭和49(1974)年4月、浄水管理事務所に設けていた水質課を廃し、水質センターを発足させた。 同センター設置の目的は、浄水管理事務所水質課ごとに分散管理していた業務を見直して、浄水場は浄水処理に必要な水質管理を分担し、その他の業務は全てセンターに集中することによって、水質管理業務の効率的な運営と都民サービスの向上を図ることにあった。 この結果、水質事故対応、浄水処理に係わる調査実験等の業務が一元化され、水源調査結果の解析、体系的に収集された資料の活用等により、水質汚濁の現況及び将来水質について的確な動向把握が可能となった。 更に、センターに水質待機要員を置くことにより、夜間、休日等の水質事故及び苦情の処理についても強化し、組織として24時間即応体制を確立した。2 高普及時代の水質問題 河川や海域等の公共用水域の水質は、昭和50年代に入って次第に回復していったが、一方で水道水の水質第3節 拡張から水道使用者の視点に配慮した質的充実へ

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