(2)戦時非常態勢と水道財政 昭和2(1927)年の金融恐慌、そして昭和4(1929)年の世界恐慌と暗雲の中で幕を開けた昭和は、大量の失業を生み、それら失業者が大都市へと流れたこともあり、東京の人口は急速に増加した。 このときの水道の財政運営は、戦争等の社会情勢の影響を受けて、諸物価の高騰、公債利子の増加、戦時非常体制下における漏水防止対策などの水道防衛対策費の増加などにより非常に困難な状況であった。特に昭和17(1942)年には電力の消費規制の観点から、大口需要者であった水道関係の取水及び配水の原動力としての電力費が大幅に値上げされた。一方で、唯一の収入源である料金収入は政府の低物価対策から値上げを抑制された。 更に太平洋戦争が激化してくると、都市防衛、防火第一主義の観点から、水道も新しい任務と性格を持つようになり、重要な戦時資源として消費抑制の問題が強く全面に押し出されてきた。このような状況の中で昭和18(1943)年6月には料金改定を実施したが、これは一般家庭用の水の消費量を規制する意味合いを含めたものであったことから、超過料金を高額にする一方で、工場用等の専用栓の料金を引き下げるなどの戦時非常体制がとられた。2 戦後の水道事業経営(1)戦災復興財源の確保 戦災により水道施設や給水栓も大きな被害を受けており、その復旧が必要であったが、一方で被災や疎開第一章 東京水道100年の概観25等により給水栓が戦前の約30%に減少したため、水道使用料も激減、水道財政は危機的な状況に陥っていた。 また、戦後のインフレ経済の影響で物価や人件費が高騰したほか、昭和22(1947)年のキャスリーン台風、昭和23(1948)年のアイオン台風による被害の復旧費用、昭和25(1950)年6月の朝鮮戦争勃発による諸資材等の高騰など、更に経費を膨張させる要因が重なった。 こうした財政負担に対応するため、終戦直後の昭和20(1945)年11月から昭和27(1952)年1月までの間断続的に水道料金の改定を行ったほか、国庫補助の申請に加え、一時は1,390万円の赤字債も発行した。こうした取組と、支出面で公債償還の一部が5か年据え置かれたことも幸いし、何とかこの時期を乗り切ることができた。(2)企業会計方式への移行 終戦直後のこうした財政危機の中で、水道事業の会計制度は地方公営企業法施行に伴う企業会計方式への移行という大きな転換点も迎えていた。 水道事業の会計制度は、明治22(1889)年以来、特別会計で事業収支を経理し、独立採算制の発想で運営されてきた。しかし、その会計方式は官庁式会計制度によっていたために、主に資金の収支に重点が置かれていた。 昭和22(1947)年に地方自治法、昭和23(1948)年に地方財政法、昭和25(1950)年には地方公務員法等が次々と制定されたが、昭和27(1952)年8月に地方公営企業法が制定され、10月1日に施行された。 これに伴い、東京の水道も同法に基づく企業制度へと移り、独立採算制を堅持し、企業の能率的な運営を図る観点から、発生主義に基づく企業会計方式、複式簿記の採用、指定金融機関による預金保管制や貯蔵品制度の採用等、これまでの会計制度とは大きく性格を変えることとなった。特に、これまで官庁式会計によって経理されていた固定資産を、新しい公営企業法のもとで適正に償却(減価償却)することによって、企業としての真の経営状態を明確にすることとなった。3 苦境に立つ水道経営 昭和23(1948)年以降、戦前に中断していた各種拡張事業が次々と再開していったが、それに伴い、拡張事業の財源として発行した企業債の元利償還金額も年々増大していった。表1-2 隣接公営水道及び民営水道の一覧
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