275 2420主な追加施設(都関連)ぜき第一章 東京水道100年の概観況を改善する最良の解決策であることから、各省庁及び水資源開発公団(現在は「独立行政法人水資源機構」という。)と協議を重ねてきた。そして7月23日、昭和37(1962)年以来政府に設置されていた東京都水道対策連絡会議が開催され、東京都と水資源開発公団は、利根川導水工事のうち荒川取水関連工事を遅くても8月末までに完了する等の内容が決定された。 こうした動きの中で、実際の供給体制は悪化していき、東京都渇水対策本部は給水制限を強化するとともに、応急給水の応援強化に自衛隊の出動を要請した。 8月14日には小河内ダムの貯水量が500万㎥、貯水率は満水時の約2%にまで減少したが、8月20日の未明からの降雨により、貯水池の水量は364万㎥(満水時の1.5%)を最後に、5月以来100日ぶりに増加に転じた。 さらに、8月25日、荒川の秋ヶ瀬取水堰ぜきで取水式を行い、待望の荒川取水が開始され、原水連絡管によって初めて東村山浄水場に送られた。 その後も貯水量は順調に増え、制限率も9月14日からは25%に、10月1日からは15%に緩和され、水道始まって以来の給水危機となったこの「東京サバク」を切り抜け、10月10日、晴れて東京オリンピックの開会式を迎えることができた。2 利根川系水道拡張計画の沿革 昭和32(1957)年から続いた水不足解消の一因となったのは、利根川の水であった。利根川に水源を求めることは、東京にとって積年の悲願であり、既述のとおり大正15(1926)年9月、東京市議会は利根川に水源を求めることを建議している。この時東京市は、利根川取水を行う試案を作成し、関係方面と折衝を重ねたが、水利調整上の問題等で実現には至らなかった。 また戦後の昭和30(1955)年には経済企画庁あっせんのもとに矢木沢ダム建設共同調査委員会を設立して、東京都、群馬県及び東京電力の三者で流量、地質その他の調査を進めるとともに協議を重ねたが、水量配分について容易に調整がつかなかった。 そのような中、昭和27(1952)年、戦前に群馬県営として認可されながら未着手のままであった河水統制事業を国が実施することとなったので、都は建設大臣等に対して、同事業に都の拡張事業の水源を包含するよう要請を行った。そして昭和32(1957)年には、「利根特定地域総合開発計画」が閣議決定され、これにより利根川を東京都水道水源として利用する計画が確定した。 しかし、急速な経済成長により大都市圏の水道需要も急増し、それに応じて水資源開発も経済計画の一環としても重要な課題として注目されるようになってきた。一方、従来の制度では、水資源開発の広域にわたる体系的な枠組みに欠けるため、水系ごとに水資源開発基本計画を策定し、実施することが必要であった。そこで、昭和36(1961)年11月水資源開発促進法及び水資源開発公団法のいわゆる水資源開発二法が制定され、国の施策として水資源の総合的な開発、利用を図ることになり、昭和37(1962)年に「利根川水系における水資源開発基本計画」(昭和49(1974)年に荒川水系が水資源開発水系に指定され、現在は「利根川水系及び荒川水系における水資源開発基本計画」となっている。以下「フルプラン」という。)が決定された。 これにより、建設省直轄の矢木沢ダム及び下久保ダム築造事業は水資源開発公団に引き継がれ、利根川の開発が本格的に進んだ。このほか、関連する利根大堰ぜき・武蔵水路・秋ヶ瀬取水堰ぜきなどの導水施設(利根導水表1-1 利根川水系及び荒川水系におけるフルプランの概要
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