第一章 東京水道100年の概観19て、東京、名古屋及び大阪の3大都市圏を中心とする太平洋ベルト地帯に多くの人口が集中したが、特に東京圏においては、人口・産業の集中が著しく、昭和30(1955)年から昭和50(1975)年までの20年間の増加人口の半分以上が、東京圏1都3県に集中した。 特に、東京都の人口増加は高度成長期の初期において著しく、昭和30(1955)年から昭和35(1960)年までの5年間で、全国の増加人口414万人の40%に当たる165万人が都民に加わった。 このように、東京に集中した人口はそれだけでも水道需要を増大させたが、加えて、事業所や商業地域における冷暖房、清掃、トイレ用水等の需要、洗濯機や自家風呂などの用水機器の普及による生活用水の需要増等により、水道需要は飛躍的に伸び続けた。 一方、昭和33(1958)年は、50数年来といわれる異常渇水に見舞われ、多摩川の流量は激減、最も下流にある玉川浄水場では4月下旬から給水状況が悪化し始め、5月7日には城南地区15万世帯が時間給水に追い込まれた。 小河内ダムのしゅん工や東村山浄水場の一部通水開始により給水能力は向上したが、渇水が再び連続して発生したため、昭和36(1961)年10月から昭和40(1965)年3月まで、実に4年間連続して給水制限を行わなければならなかった。(2)緊急拡張事業 こうした給水状況を改善するため、当局は江戸川系水道拡張事業と中川・江戸川系水道緊急拡張事業という、二つの緊急的な拡張事業を実施した。 前者は、戦前国が実施した江戸川水利統制事業計画での余剰水量(毎秒2.0㎥。引水許可申請をしたが千葉県との競願となり、昭和31(1956)年3月に毎秒1.2㎥が都分として許可された。)の一部を水源に、金町浄水場の施設拡張(9万5,000㎥/日)、付帯配水施設の増強により、江北・城東地区の給水不良を改善しようとしたものである。 昭和35(1960)年3月に事業認可を得て工事に着手したが、昭和36(1961)年から続く異常渇水に対処するために予定工期を繰り上げ、昭和38(1963)年3月に通水を開始し、翌年3月に完成した。 また後者は、昭和36(1961)年から翌年にかけての異常渇水の深刻化を契機として、昭和37(1962)年5月24日に、建設省立会いの下、東京都、埼玉県及び千葉県で取り交わした「中川・江戸川における緊急水利に関する覚書」により推進が決定された事業である。 以前から実施していた中川及び江戸川の利水調査により、江戸川の流量が非かんがい期には余裕があり、一方中川にはかんがい期において農業用水の還元水流入があるというデータを得ていた。そこで、中川及び江戸川の利水計画の調整案が決定したのを受け、これらを水源として金町浄水場の施設拡張(40万㎥/日)、中川から江戸川への導水施設の建設、鹿浜線の布設等を主な内容とする事業計画を申請し、昭和37(1962)年8月に認可を受けた。 同年10月に工事着手し、給水の非常事態及び東京オリンピックの開催を考慮して昭和39(1964)年6月15日に通水、昭和40(1965)年度に完成した。(3)オリンピック渇水と利根川の水 昭和38(1963)年から昭和39(1964)年にかけて、小河内ダム上流の積雪は比較的多く、3月から融雪水が順調に流出し始めたので、給水制限率を一時緩和したが、5月、6月の雨量が異常に少なく、貯水量は減少の一途をたどっていた(写真1-11)。7月に入っても降雨がなく、新聞では「東京サバク」と騒がれ、東京都では再び制限率を強化するとともに、(臨時)東京都渇水対策本部を設置した。【写真1-11 渇水により水位が減少した小河内貯水池】 また、同年10月に控える東京オリンピック開催に向け、後述する施工中の利根川導水工事の通水が給水状
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