18第一章 東京水道100年の概観ム工事に絶対的安全性と工事技術の完璧を期す」ことを付帯条件とし、昭和29(1954)年度に完成する方針を議決した。 これに基づいて、昭和23(1948)年9月には西多摩郡氷川町桧ひむら村に小河内貯水池建設事務所を再開し、まず用地買収や農地問題の処理のために貯水池用地対策委員会を設立して、その後の補償問題や更生対策について協議を進めた。昭和26(1951)年3月には小河内村と、昭和27(1952)年7月には、丹波山村及び小菅村と覚書を交換し、戦前からの懸案であった補償料、移転料、移転更生対策などについて、地元との合意を見た。 事業の根幹となる小河内ダム築造工事は、昭和23(1948)年10月に貯水池建設の準備工事に着工し、昭和28(1953)年3月には定礎式を行い、ダムコンクリートの打ち込みを開始した。そして昭和32(1957)年6月から多摩川の仮水路を閉そくして貯水を開始し、同年7月に最後のコンクリート打ち込みを完了し、11月にしゅん工式を挙行した(写真1-9)。【写真1-9 小河内ダム】 また東村山浄水場は、当初一日最大給水量42万5,000㎥で計画されていたが、後述する淀橋浄水場併設移転により、合計66万5,000㎥として計画し直された。 工事は二期に分けて施工され、第一期工事(33万2000㎥/日)は昭和35(1960)年8月に配水池を除いて完成したことから直ちに一部通水(15万㎥/日)を開始し、その後同年11月に完成した。第二期工事(33万3,000㎥/日)は昭和35(1960)年6月に着手し、昭和37(1962)年6月に完成、翌年3月から66万5,000㎥/日の全部通水が可能となった。3 淀橋浄水場の閉鎖 戦後の復興が進むにつれて、新宿区を中心として淀橋浄水場の移転を望む声が高まり、地元から提出された淀橋浄水場移転促進を求める請願が東京都議会で議決された。 また、昭和31(1956)年4月に首都圏整備法が制定され、昭和33(1958)年7月の首都圏整備委員会において、新宿、渋谷及び池袋を副都心として位置付け、整備する方針が打ち出された。 これを受けて、東京都議会は昭和35(1960)年3月に「新宿副都心建設に関する基本方針」を議決、同年5月には東京都は新宿副都心建設協議会を設置し、本格的に淀橋浄水場の移転と跡地整備に向けて動き出した。 この結果、長い年月にわたり東京における水道水供給の中心的役割を担ってきた淀橋浄水場は、第二水道拡張事業として建設中の東村山浄水場に併設移転することになり、昭和40(1965)年3月31日に閉鎖され給水開始から数えて約70年の歴史を閉じた(写真1-10)。【写真1-10 廃止直前の淀橋浄水場】第3項 拡大する水道需要への対応1 緊急拡張事業の実施(1)水道需要の増加と長期渇水 戦後の復興及びそれに続く経済成長は、飛躍的に東京に産業と人口を集中させた。高度経済成長期を通じ
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