東京近代水道125年史
19/206

第一章 東京水道100年の概観17昭和20(1945)年10月29日の都議会において、東京都長官が「都政の運営方針は、新日本建設のため、東京の復興のため、都民生活の再建のため、焼跡を整備し、都民の衣食住の確保を図ることにある」とうたい、復興への指針を示した。 こうした中で、水道をいかに復興するかについて、当局は昭和21(1946)年1月に水道運営要綱を定め、給水不良解消のため拡張事業の再開の必要性を都民に訴えるとともに、その具体案として昭和23(1948)年1月、「東京都復興に伴う上水道計画―拡張事業を中心として―」(以下「水道復興計画」という。)を発表した。 水道復興計画は、水道の窮状を打開するだけでなく将来の給水に憂いを残さないよう、漏水防止や既存施設の改良等に加え、江戸川、多摩川及び相模川を水源とする各種拡張事業の推進をその内容としており、これらによる給水増加量合計を1日76万1,582㎥とした。 また、戦前に実施した拡張事業の優先順位を定め、江戸川を水源とする拡張事業、多摩川を水源とする拡張事業、相模川を水源とする川崎市水道拡張施設からの分譲工事の順で施工することとした。 さらに、東京都は東京市政調査会に行政全般について調査を求め、同調査会は昭和22(1947)年10月、水道事業について「第二水道拡張事業、特に小河内問題に関する調査報告書」と題する報告を行い、東京都は、なお、水道の拡張を必要としていること、拡張する場合には第二水道拡張事業を引き続き実施することが有利であり、かつ有効であるとの結論を出した。2 戦前の拡張事業の再開 小河内貯水池建設をはじめとする拡張工事の再開については、その実施を希望する付帯決議が戦後すぐの昭和20(1945)年12月の東京都議会から毎年行われていたが、昭和23(1948)年4月の都議会において、拡張事業を中心とする水道の復興計画が議決され、ここに水道応急拡張事業、第二水道拡張事業及び相模川系水道拡張事業(旧城南配水補給施設事業)の3事業の工事再開が決定された。(1)水道応急拡張事業 戦後の再開工事は、昭和23(1948)年8月になって金町浄水場の沈殿池築造から着手した。しかし、事業費の財源である起債の認可は昭和25(1950)年度までで、昭和26(1951)年度からの起債の認証を得ていないなど、資金計画の面で難題を残していた。また、追加工事などにより予定の工期を延長し、昭和28(1953)年3月末、ようやく増加給水量1日13万6,289㎥(全計画量25万9,200㎥/日のうち中止時までに完成した12万2,911㎥/日を除いた給水量)の全工事が完成した。(2)相模川系水道拡張事業 城南配水補給施設事業は、相模川系水道拡張事業として新たに実施することになった。 再開に当たり、昭和18(1943)年の「東京市ヘノ分水協定」は、分水方法を浄水から原水に変更するなど戦後の実情に合わせて改訂する必要があった。そこで東京都、神奈川県及び川崎市の三者間で協議を続けたものの、三者の利害関係が一致しないまま7年が経過した。 そして昭和30(1955)年になり、建設大臣立会いの下に関係当事者代表の間で協定改訂に関する基本方針についての覚書がようやく調印された。 城南地区の深刻な給水不良を考慮し、工事の施工は、改訂分水協定の成立を待たずに関係官庁の了解を得て、昭和25(1950)年10月多摩水道橋架設工事から着手し、配水幹線の布設を先行した(写真1-8)。【写真1-8 多摩水道橋渡り初めの様子】 一方、本事業の基幹施設である長沢浄水場の築造工事は、分水協定の成立後である昭和31(1956)年7月に着手、昭和34(1959)年3月5日に一部通水(5万㎥/日)を開始し、同年7月には全量(20万㎥/日)の通水を開始した。(3)第二水道拡張事業 第二水道拡張事業に関して、昭和23(1948)年4月、東京都議会は「下流地域全般の安全を保証するため、ダ

元のページ  ../index.html#19

このブックを見る