16第一章 東京水道100年の概観【写真1-6 戦災による水道施設への被害】 破損した配水管、焼失した給水栓の鉛管から生じる漏水量は膨大で、昭和21(1946)年3月時点で、戦前とほぼ同量の日量120万㎥前後の配水を行っていたにもかかわらず、給水は円滑でなかった。 漏水に対しては、昭和20(1945)年3月の東京大空襲から、焼損給水装置修理の応急措置として、鉛管のたたきつぶしを主とした作業を続けていた。この応急漏水防止は、戦前戦後4年の年月と多数の労力、多額の経費を費やして、昭和24(1949)年3月一応完了した。 また、配水補助管及び給水管の老朽化や配水圧の減少も給水の支障となっており、その解消対策として、終戦以来毎年、配水調整、漏水防止作業、増圧ポンプ場と鑿さくせい井ポンプ場の増設、配水管の連絡、腐食配水管及び配水補助管の布設替え等を実施した(写真1-7)。【写真1-7 戦後の復興工事】(3)城南配水補給施設事業計画 第三水道拡張事業が完成してもなお数十万㎥の給水不足が予測されていたので、第三水道拡張事業計画と並行して、応急的に相当量の給水増加対策を行う必要があった。 相模川を水源として利用する案はこれまでも検討されてきたが、昭和15(1940)年度から神奈川県が実施した相模川河水統制事業に伴って計画された川崎市の水道事業に水量的な余裕があることが判明した。そこでこれを川崎市の余裕のある期間、また、一連の拡張事業が完成するまでの応急補給水量として浄水分水という形で譲り受け、給水不足の最も著しい城南地区に配水することを計画した。 昭和17(1942)年10月から内務省のあっせんのもとに神奈川県及び川崎市との交渉を開始し、昭和18(1943)年6月29日、関係当事者三者代表のほか、内務省国土局長及び厚生省衛生局長連署のもとに、「東京市ヘノ分水協定」が調印された。 この分水を受けて、市内でも最も給水事情の悪い玉川浄水場系統の低地地区への給水改善を図る計画が城南配水補給施設事業であり、昭和18(1943)年3月30日東京市会の議決を経て、翌年1月14日付けで内務省、厚生省の認可を受けた。 ところが、昭和15(1940)年に着手した川崎市水道の拡張事業は、戦局が激化する情勢の中、昭和20(1945)年に中止された。そのため、東京都も受水施設の建設に着手できず、わずかに配水管工事の一部を実施したのみで中断した。第2項 戦災復興と拡張事業の再開1 戦争の被害と復興計画(1)水道施設への被害 太平洋戦争終戦までの間に、東京は300回を超す空襲を受け、水道施設はその都度相当の被害を受けた。中でも最大の被害を受けたのが一般家庭であり、焼失などで64万9,203栓に被害を受けたほか、戦前の給水装置総栓数94万15栓の約70%が失われた(写真1-6)。(2)復興計画と拡張工事 昭和20(1945)年12月に戦災復興院による「戦災地復興計画基本方針」が閣議決定され、翌年1月には、「帝都復興計画要綱案」が発表された。東京都においては、
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