東京近代水道125年史
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3.昭和12(1937)年4月に東京市長の諮問機関として設置された。第一章 東京水道100年の概観15として計画したものであり、昭和7(1932)年7月に東京市会で決定された。 この事業では、東京市水道の将来所要給水量を1日90万6,135㎥に達するものと推計した上で、主に市北部及び隣接四町(現在の新宿区、渋谷区、文京区、台東区など)に1日42万5,293㎥の給水を行うこととした。 また、その水源については、江戸川・利根川案、相模川案及び荒川案について検討・調整を行ったが、取水権を取得することができなかった。そこで東京府管内の多摩川に大容量の貯水池を設けることで水源を確保することとした。(2)事業の概要 水源施設については、西多摩郡小河内村において多摩川を横断して堰えんてい堤を築き、同郡小河内、山梨県北都留郡丹波山及び小菅の諸村にまたがる大貯水池を設け、同川の流量が豊富なときにこれを貯留し、渇水時に放流する計画に基づき、調節によって得た水量を、拡張に必要な水源に充当させることとした。 また、北多摩郡東村山村に新たに浄水場を設け、既設村山・山口貯水池から来る原水をろ過池に引き込んでろ過し、浄水池に貯えて配水管により市内に送水することとした。 その他、導水きょ及び配水管の整備事業を含め、工期は昭和7(1932)年度から昭和26(1951)年度の20年間とした。(3)施工と戦争による中止 昭和7(1932)年の認可申請後、稲毛川崎二ケ領普通水利組合との間の水利紛争の解決に時間を要したが、昭和11(1936)年7月に認可を取得し、直ちに貯水池築造の用地買収及び準備工事に着手した。日中戦争から太平洋戦争に戦局は拡大し、資材、労力が調達困難ではあったが、昭和18(1943)年3月には、準備工事はほとんど90%完成の状態にあった。 しかし、戦時下の統制強化により、第二水道拡張事業は同年10月に中止されることとなった。3 その他の拡張計画(1)水道応急拡張事業 稲毛川崎二ケ領普通水利組合との間の水利紛争により第二水道拡張事業の事業認可が遅延する中、需要増加への応急対策として、江戸川を水源とする金町浄水場系統の応急拡張事業、多摩川を水源とする砧下浄水場系統の応急拡張事業の2つからなる東京市水道応急拡張事業計画を策定し、昭和11(1936)年8月に事業認可を取得した。 このうち、砧下浄水場の拡張事業(1万6,700㎥/日)は昭和16(1941)年5月に完了し、既存施設と合わせて4万4,500㎥/日の給水を行えるようになった。 一方金町浄水場でも25万9,200㎥/日の給水能力増強を目的とした施設拡張工事が行われ、昭和17(1942)年5月に12万2,911㎥/日の通水をしたが、戦争の影響により昭和20(1945)年以降工事を一時中断した。(2)第三水道拡張事業 第三水道拡張事業計画は水源を利根川に求めるもので、大正15(1926)年9月の市会決議「大東京の水源は利根川に求められたし」を初めて具現するものであった。 東京市がこの事業計画を立案したのは、当時、奥利根の大堰えんてい堤築造を中心とする群馬県の河水統制事業計画が進行中であったことによる。 東京市はこの計画を水源獲得の絶好の機会ととらえ、昭和14(1939)年3月、内務省に対し、利水の受益者として事業費を一部負担する代わりに、群馬県の計画に東京市の水道拡張計画の所要水量を含むよう要請した。 昭和15(1940)年2月に群馬県は河水統制事業の認可を受けたため、東京市が水道拡張計画を決定するよう表明し、また内務省も、同年8月に東京水道の拡張方針決定を勧奨する意向を伝えてきた。 これらを受け、水道水源調査委員会3は同年10月、「利根川上流から最大毎秒12㎥の原水を取水することは、吾妻川の水を避けて取水する限りにおいてこれを適当なものと認む」という答申を行い、これに基づき、昭和16(1941)年3月に東京市会は第三水道拡張事業計画を決定した。 その後、東京府は工事の認可申請等に着手したが、戦況の悪化により群馬県の河水統制事業そのものが着手に至らなかったため、未認可に終わった。

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