2. 「大東京」とは、明治22(1889)年に設置された東京市の市域(現在の千代田区、中央区、港区、新宿区の一部、文京区、台東区、墨田区の一部、江東区の一部)に加え、隣接する5郡(東京市設置当時は6郡)を含む、概ね現在の23区に相当するエリアのことを言う。昭和7(1932)年10月の市域拡張により、5郡も東京市に編入された。(大東京35区物語~15区から23区へ~東京23区の歴史(https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0714tokyo_ku.htm))14第一章 東京水道100年の概観第2節 拡張の時代設など新規の行政需要に対応するのも困難な状況であり、水道布設を行う財政的余裕はなかった。 こうした状況を受け、内務省は、市町村経営が原則であった水道条例を、①土地開発に必要な場合に限り、②当該市町村に資力がない時は、③元資償却を目的とすることを条件に例外的に民営水道の布設を認める、という方針に変更した。この水道条例改正案は、明治44(1911)年3月、帝国議会の議決を経て公布された。 しかし、民営水道の布設は、元資償却を目的とするため、所定期間が過ぎれば無償で当該市町村に水道を委譲し、また、未償却でも当該市町村に資力が生じ買収を望んだ場合、これを拒否できないという厳しい条件が付されていたので、民間事業者はためらった。 そこで、内務省は大正2(1913)年に水道条例を改正し、①と③の条件の廃止や所定期間終了後の委譲の有償化、期間満了以前でも当事者間の協議により買収できるようにするなど、民営水道の布設条件を大幅に緩めた。 改正後の条例の規程に基づき最初に布設された民営水道が、城南地区を給水区域とした玉川水道株式会社である。また、大正7(1918)年4月には大都市に隣接する町村水道に国庫補助が認められるようになり、東京周辺では、大正12(1923)年5月に渋谷町、大正15(1926)年4月には目黒町、同年8月に江戸川上水町村組合が給水を開始し、また、同年12月には荒玉水道町村組合が水道布設の工事を開始した(写真1-5)。【写真1-5 駒沢給水所配水塔(渋谷町水道)】第1項 戦前の拡張事業1 「大東京2」の水道 明治時代の末期から経済及び文化の中心地として東京は目ざましい発展を遂げたため、大正時代には東京市近郊でも人口が増加していった。市内だけでなく、近郊・外郊を含めた給水計画の必要性が高まったことから、東京市の市域及びその近郊を一体としてとらえた水道計画を策定するため、東京府知事は大正8(1919)年、中島博士に郡部給水計画の調査を委嘱し、博士は調査結果に基づいて「東京市郊外上水道給水計画」を立案した。そして東京府は、この調査に基づいて東京市隣接町村に水道布設の必要性を説き、その実現を奨励した。 その後、東京市においても市が主体となって調査研究しなくてはならないという認識が高まり、大正11(1922)年に臨時調査掛を設置、給水計画の実現性を検討した上で、大正12(1923)年5月に「大東京水道案」を作成した。 また東京市会は、大正15(1926)年3月、大正15(1926)年度の予算を可決する際に「将来大東京実現の場合を予想し、本市水道事業上百年の長計を立てられたし」という希望条件を付け、ついで同年9月には、「将来の水道拡張の水源は利根川に求められたし」という建議を満場一致で可決した。 そして昭和6(1931)年9月、大東京水道案は関東大震災後の人口変動、翌年の市域拡張等を視野に入れた修正がなされ、「大東京水道計画ニ関スル調書」として発表された。 この「大東京水道計画ニ関スル調書」は、昭和前半期の東京水道の原形となるもので、その一部が具体的に実現したのが第二水道拡張事業計画である。2 第二水道拡張事業(1)計画の策定 第二水道拡張事業計画は、旧東京市を主な給水範囲
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