東京近代水道125年史
14/206

12第一章 東京水道100年の概観【写真1-3 村山貯水池】(2)拡張事業の経過 第一次水道拡張事業は、大正元(1912)年9月7日に内閣の認可を受け、大正2(1913)年11月から着工した。 しかし、第一次世界大戦の勃発などによって、物価・賃金が異常に高騰し、東京市は2回にわたり一般行財政の緊縮を断行するなど、拡張事業も既定の年度割予算額を保持できなかったため、大正6(1917)年、事業期間を2年間延長し、大正10(1921)年度までとした。 また、第一次世界大戦終了後も物価・賃金が大戦前に戻らず、拡張事業費は増額し、既定の金額では所定の期間内に事業の遂行が望めないことが判明した。そこで、大正9(1920)年に工事を第一期(大正2(1913)年度~大正12(1923)年度)と第二期(大正13(1924)年度~大正17(1928)年度)に分割した。 第一期工事では、羽村村山線、村山貯水池の一部(上貯水池)、村山境線、境浄水場ろ過池12池等を整備することとされた。第一次世界大戦による物価・賃金上昇等の影響を受けつつも工事が進められたが、大正12(1923)年の関東大震災の影響で工期を1年延長し、大正14(1925)年3月に完了した(写真1-3)。3 関東大震災からの復興と第一水道拡張事業の完了(1)関東大震災による水道施設への被害 大正12(1923)年9月1日に発生した大地震は、東京・横浜など東京湾や相模湾沿岸の諸都市に甚大な被害を与えた。東京水道の場合、導水施設である和田堀・淀橋浄水場間の新水路が2か所決壊し、水路全体では200か所余りに亀裂が生じた。唯一の浄水場である淀橋浄水場では大部分のポンプが破壊され、市内の配水管は破裂や漏水により大部分が配水不可能となり、芝給水場系統の一部を除いてほとんど全市が断水した。 また地震に伴って発生した火災によって給水栓の約64%が焼失し、河川に架設した水道鉄管の架橋焼失は、86橋に及んだ。(2)水道復興速成工事 第一水道拡張事業は関東大震災の影響で一時中断されたが、元々第二期工事に含まれていた村山下貯水池の堰えんてい堤築造残工事、和田堀・淀橋間の配水本管布設は、給水改善上緊要度の高いものであった。そこで、震災によって破壊された水道設備の復旧工事とともに、これらの施設整備を行う水道復興速成工事を始めた。 既存の施設は、新水路や淀橋浄水場、更には市内配水管の被害状況に応じて修繕工事等を行い、このほか淀橋浄水場に原水ポンプを新設する等施設の改善を進めるとともに、その後新たに築造する設備については、一定の耐震構造を取り入れるようにした。 また、被害の最も顕著であった和田堀-淀橋浄水場間の新水路は、築堤上に設置する水路の弱点を露呈したので、新水路に平行する甲州街道の拡幅計画に着目し、この道路拡張部分に新水路に代わる導水暗きょを設置することになり、昭和12(1937)年7月しゅん工した。 さらに、村山貯水池工事は付帯工事の一部を残して昭和2(1927)年3月にしゅん工、和田堀・淀橋間の配水本管(新宿・和田堀線)の布設も同年5月にしゅん工した。(3)第一水道拡張事業第2期工事 東京市の水道の施設能力は、第一期拡張工事及び水道復興速成工事の完成により飛躍的に増強されたが、市勢の発展はそれを上回る勢いであったため、大正9(1920)年に分割した第二期工事を対象に東京市水道拡張計画の原設計を変更し、新たに山口貯水池を設置することとした。 第二期工事は昭和2(1927)年度に着工し、昭和11(1936)年度に全工事が完成した(写真1-4)。

元のページ  ../index.html#14

このブックを見る