東京近代水道125年史
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第一章 東京水道100年の概観11 しかし、工事中に発生した鉄管納入の遅延問題、不正鉄管の納入問題など一連の事件は政治問題に発展し、市参事会員の辞表提出、府知事辞職の勧告、市会解散、知事辞職と続き、東京市政を混乱に陥れた。 このような経過はあったが、明治31(1898)年12月1日に淀橋浄水場から神田・日本橋方面に給水を開始した(写真1-2)。翌明治32(1899)年1月から各戸の給水工事に着手、同年2月には浄水された水の供給が始まり、順次給水区域を拡大していった。そして明治34(1901)年には市内の旧上水を廃止した。【写真1-2 淀橋浄水場(機関室)】 当時の水道は、一般家庭の場合、各戸に給水されるものではなく、街路に設置された共用の水栓を利用するものであったが、すぐに容器一杯となり、旧水道では雨天につきものであった濁りもなく、鉄管で密封された水は衛生的にも安全で、その圧力は防火上の効果が十分期待できた。 当局者や識者は、防火上の効果も十分期待でき、殖産興業も大いに期待されることから、改良水道の実現を大変喜んだ。また、一般市民は、それまで水道料金は全て地主が負担していたため新たな負担が生じたことに戸惑ったが、その便利さに給水量は年々増加していった。第3項 拡張工事の始まりと震災復興1 東京市の発展と水道拡張の必要性 明治後期は、社会経済が目覚ましく発展し、既に都市化の波は東京全体に及んでいた。改良水道は当初、給水人口を150万人と想定し、1日標準給水能力は16万7千㎥で計画していたが、給水量は年を追って増加し、明治42(1909)年の1日最大給水量は既に21万6,000㎥を超えていた。 この急速に増えた水道需要に対応するために、2度にわたって淀橋浄水場を拡充し、給水人口200万人、1日給水能力24万㎥の施設に増築したが、ろ過能力の限度に近い、ぎりぎりの給水状況でしのいでいた。 全工事がしゅん工した明治44(1911)年時点で見ると、市内戸数の約2分の1、市人口の約3分の2に給水を行っていたものの、水道を使用していないものは、なお約20万戸、70万人を数えた。 明治末期以降、東京市は更に急速に発展し、関東大震災以前に、既に市街化は近郊にまで及んでいた。大正3(1914)年の東京駅開業後の業務用ビル増加、住宅建設の増加などもあり、改良水道建設完了後まもなく、東京水道は更なる拡張の必要性に迫られた。2 第一水道拡張事業の開始(1)拡張計画の決定と当面の給水対策 そこで、東京市は給水能力の倍増を目的とした水道施設の拡張計画を策定、大正元(1912)年、第一水道拡張事業として事業認可を取得し、工事に着手した。 第一水道拡張事業計画は、当初大正2(1913)年から大正8(1919)年までを事業期間とし、多摩川を水源として村山貯水池、境浄水場、和田堀浄水池(現在は和田堀給水所という)などの建設を含むものであった。 この計画策定に当たって、市区改正委員会は、東京市の依頼を受けて、明治42(1909)年4月に中島博士らに東京市水道拡張に関する調査を委嘱した。 中島博士は、明治44(1911)年12月に拡張計画として大久野貯水池案・村山貯水池案の2案を挙げたが、この2案は、貯水池の位置、将来の補助水源、工費の大小、工事の難易度、水質等に多少の差があるものの、いずれも主要水源を多摩川系統に設置する貯水池に求めたものであった。 このうち、工費が400万円安いこと、補償関係費用が少ないこと、工事が容易であること等を理由に、市区改正委員会は村山貯水池案を選定した。 一方、拡張計画完成までの間の当面の給水対策として、漏水及び乱用の防止、給水取締りの励行、節水等を掲げ、拡張事業が完成するまでの歳月を乗り切ることとした。

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