東京近代水道125年史
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1. 明治13(1880)年、東京府知事の松田道之は、東京の改造方針を述べた「東京中央市区画定の問題」を発表した。これは、主に衛生と防火に着目しながら、首都にふさわしい中心市街地の創出を目指したもので、これが端緒となり、明治21(1888)年には、市街地を計画的に改造するための手続や財源を制度化した東京市区改正条例が公布された(『東京の都市づくりの歩み』令和元年6月)。同条例は大正8(1919)年には都市計画法に改正され、京都、大阪、横浜、神戸、名古屋等東京以外の市区改正を取り扱う規範となった(『東京近代水道百年史 通史編』)。10第一章 東京水道100年の概観2 改良水道の計画(1)改良水道の検討 水道水質の問題は、有識者だけでなく政府も認識していたが、予算や技術等の制約があった。しかし、徐々に水道改良の機運が高まり、近代国家としての体面、衛生上の実情などからも放置できない状況となってきた。 そこで、政府は内務省土木寮雇オランダ国工師ファン・ドールン(Cornelis Johannes van Doorn)に調査を命じた。ドールンは、明治7(1874)年に「東京水道改良意見書」を、さらに翌年「東京水道改良設計書」を提出した。これが東京近代水道の始原であり、日本最初の大都市の近代水道設計である。 明治9(1876)年、政府は東京府に水道改正委員を置き、上水の改良方法、建設費用などを調査させた。改正委員はドールンの意見書等を参考として翌年に「府下水道改設之概略」と題する報告書をまとめた。 当時、江戸上水を近代水道に改良する目的としては、清澄にろ過された水を供給することが第一であり、そのためには、外部からの汚染を防ぎ、内外部からの圧力に耐えられる鉄管による配水が望ましいと考えられていた。 「府下水道改設之概略」の中でも、「府下の水道に必要なことは、清潔であること、豊富であること、そして、高く上げることのできる圧力である。すなわち、旧水道を廃止し、沈でん池、ろ過池及び高溜(配水池)を設置し、鉄管を布設することである」ことをうたっていた。(2)市区改正と東京水道改良設計書の作成 帝都整備、都市計画及び火災消防の側面から叫ばれていた水道改良の機運は、明治19(1886)年のコレラ騒ぎを契機として一層促進され、明治21(1888)年の東京市区改正条例1公布、市区改正委員会の設置により具体化されていった。 市区改正委員会は、東京の都市計画の中で最も緊要のものとして水道改良の実施を決議し、バルトン(William K.Burton)、長与専斎、古市公威、原口要、山口半六、永井久一郎及び倉田吉嗣の7人に調査を委嘱した。そしてバルトンの設計を中心に、他の外国人の修正意見や日本人技術者の意見も取り入れ、最終的な東京の近代水道設置計画「東京水道改良設計書」が明治23(1890)年7月に内閣総理大臣の認可を得た。 しかし、日本人技師中島鋭治は、浄水工場(現在の呼称では浄水場)を千駄ヶ谷村から淀橋町へ、給水工場(現在の呼称では給水所)を麻布及び小石川から芝及び本郷へと変更し、淀橋以西に新水路を築造することの利益を主張した。 旧案に比較して水利や工事施工、あるいは経済性の面から見て大いに有利であるこの建議は、明治24(1891)年12月の市区改正委員会において直ちに可決され、設計が変更された。 中島博士は、日本各地の水道創設にも参画したが、日本の衛生工学を外国人依存から脱却させたことで、大きな功績を認められている。3 改良水道のしゅん工 明治24(1891)年11月、東京府庁内に水道改良事務所が開設され、明治25(1892)年に入ると用地買収にも着手し、同年9月には仮事務所の建築、12月には新水路工事と、改良水道の工事も本格化した。そして明治26(1893)年10月22日、淀橋浄水場において、改良水道起工式が盛大に挙行された(写真1-1)。【写真1-1 起工式の様子】

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