東京近代水道125年史
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9第一章 東京水道100年の概観水門以下は地中配管となり、麹町十二丁目で、一つは江戸城中へ、一つは南北城下町へと分かれ、北廻り線は番町、富士見町、飯田町、平河町及び永田町方面に、南廻り線は紀伊国坂を下り赤坂、虎ノ門、西久保金杉、内桜田、永楽町、新堀、八丁堀、築地等に及び、通過する町に飲み水の供給を行った。(3)その他の上水 以上2つの上水のほか、万治2(1659)年頃には、埼玉県八条村付近から取り入れた中川の水を、亀有を経て吾あずま嬬町から西に向かい本所方面に給水した亀有上水が開削された。 続けて万治3(1660)年、四谷大木戸で玉川上水を分水し、青山付近から麻布、六本木及び飯倉を給水区域とする青山上水が開削された。 さらに寛文4(1664)年、玉川上水を下北沢付近で分水し、代々幡、渋谷及び目黒を経て大崎に至る三田上水が、元禄9(1696)年には玉川上水を武蔵野付近で分水し、石神井、練馬、板橋及び瀧野川を経て、更に巣鴨で分水し、本郷、湯島、下谷及び浅草に及ぶ千川上水が開削された。(4)上水の廃止 これら6上水のうち、享保7(1722)年に神田上水と玉川上水のみを残して、他の4上水が突然廃止された。明治時代まで存続したのは神田上水と玉川上水のみであった。 これは当時の儒官、室鳩巣の「江戸の大火は地脈を分断する水道が原因であり、したがって上水は、やむを得ない所を除き廃止すべきである」という提言が採用されたものであるという。 また、上水を廃止しても、掘削技術の向上によって鑿さくせい井(掘井戸)から清浄な水が得られるようになったことや、水道維持の困難性なども理由の一つに挙げられているが、幕府直轄領である武蔵野の新田の田用水への配慮から、4上水を廃止したのではないかという説もある。3 江戸上水の維持管理 江戸の上水は、ろ過は行わず、自然流下で配水した。 市内配管は、石積みの水路、木樋とい、これらから分岐する引込み管などを用いており、それらの材料として、安山岩や小松石、檜ひのきや松などが用いられた。 また、管路と管路の継ぎ目、分かれ目にはますが用いられ、上水に混じる砂を沈め、工事の時は施工場所を区切る役目を果たした。 こうした水道管路(樋とい線)の建設、改良、修繕等の普請修復は組合を定めて、その費用を負担させた。これらの場所を御普請場所と称し、一時幕府がその費用を立替えて工事を行い、その8年あるいは10年後、この費用を上水組合の持高に応じて割り当て、取り立てた。なお、羽村から半蔵門外までの組合は水元の分だけの普請費用を負担し、四谷門外から別れた下流の給水組合は、水元と江戸内両方の普請費用を負担した。 神田・玉川両上水とも、組合は武家方と町方とを別にし、武家方は石高、町方は小間割(地所の表間口の間数)により費用を割り振った。第2項 近代水道の創設1 旧水道の水質 このように構築・維持されてきた江戸上水だが、年を経るにつれて管理の欠如などから水質の汚染が進んでいった。導水路では付近の道路等から汚染物質が流入したほか、配水管である木樋といは継目から簡単に汚染物質が浸み込み、木樋とい自体の腐食も水中に溶解するなど、その水はほとんど飲用には不適当の状況で、保健衛生上なおざりにできない問題であった。 最初の水質検査は、明治7(1874)年に東京府の依頼で文部省が行った神田・玉川両上水の水質分析であった。検査の結果は、水道の原水として導水路を流れる水の水質は想像されるほど劣悪なものではなかったが、市街地における汚染状況は著しいものがあった。 明治12(1879)年に東京大学理学部化学教授のアトキンソン(R.W.Atkinson)は上水井戸及び通常の堀井を調査し、市街の上水が不浄であるのは水源が悪いのではなく、ほとんど全部木樋といが水質を変化させているためであることなどを発表した。また翌明治13(1880)年に東京大学理学部准教授の久原躬弦らが行った補完調査では、飲料水の汚染について、一部の水は「希薄の尿液と称するも、不可なからん」と酷評され、明治17(1884)年に内務省衛生局が行った調査では、良好な上流の水質も人家の密集場所を通過するに従い、水質が悪化していくという事実が判明した。

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