8第一章 東京水道100年の概観第1節 近代水道の創設 本章は、近代水道創設以前の時代から平成10(1998)年までの時代を対象とし、東京の水道の起源と発展の歴史について『東京近代水道百年史』(以下「百年史」という。)を要約して記載している。 現在の東京水道の起源は、江戸時代に整備された6つの上水にまで遡ることができる。江戸時代に整備された水道は、石積みの水路や木製の水道管(以下、「木樋とい」という。)などで供給されていたが、時代とともに老朽化し、衛生状態も悪化していった。 明治時代に入り、政府は衛生状態改善のために水道改良に向けて動き出し、明治31(1898)年、淀橋浄水場からの給水が始まった。これにより、東京の近代水道はその幕を開け、以後、東京の発展とともに急増する水道需要を賄うため、拡張に次ぐ拡張の100年間を過ごすことになる。 まず第一節では、近代水道以前の時代を簡単に振り返りつつ、明治・大正という近代水道創設期の歴史を記載している。 続く第二節では、昭和初期から戦後の高度経済成長期までの間、拡大する水道需要を賄うため施設の拡張を進めてきた時代の歴史を記載している。 そして第三節では、需要に見合った施設の整備が進む一方、水質問題や施設相互の有機的連携等新しい課題に直面した、昭和後期から平成初期にかけての歴史を記載している。第1項 東京水道の起源1 家康入国前後の江戸 江戸は、太田道灌(永亨4(1432)年~文明18(1486)年)の支配以後、執権の移動などで次第にさびれ、寒村となっていた。その上、海に近い沼沢地で湿地が多く、また海浜に面していたため塩水の浸入があった。 徳川家康が転封により入国した後は、旧領地から移る家臣や町人に住宅地を与えるため、湿地を埋め立てて土地を確保したが、井戸を掘っても塩気が混じっているため飲料に適さず、飲用水の確保が急務であった。2 江戸上水の沿革(1)神田上水 天正18(1590)年、徳川家康は家臣大久保藤五郎忠行に命じて水道の調査を行わせ、藤五郎は約3か月かけて小石川など自然の流れを利用し水道を造ったといわれる。これが東京水道の遠い起源となる小石川上水(後に発展して神田上水になった。以下「神田上水」という。)である。 神田上水は、水源(井の頭池、善福寺池及び妙正寺池)から取水口の小石川関口に至る間は自然河川(現在の神田川)を利用し、総延長5里(20㎞)余りであった。給水区域は、神田・日本橋・大手町・京橋の一部で、水道管の延長は7里(28㎞)余りであった。神田川の水源発見には、内田六次郎という者に功績があったといわれる。(2)玉川上水 承応2(1653)年、藤五郎の水道から60数年後、市街地の発達に伴って神田上水だけでは江戸の水道需要を賄えなくなってきた。様々な拡張の請願もあったので、幕府は上水拡張の提言を入れ、多摩川を水源とする上水開削計画を立てて同年2月に起工し、翌承応3(1654)年6月、この水道をしゅん工させた。これが玉川上水である。 施工に当たり、幕府は伊奈半左衛門忠克を監督に任命し、また、この地の地勢と水利に長じ、この計画を上申した町人庄右衛門・清右衛門兄弟に工事費6,000両(7,500両という説もある)を交付して工事を担当させた。兄弟は、この功績により玉川の姓と帯刀を許されるなどの褒賞のほか、後には水道管理請負の特許を受けた。 玉川上水は、導水路は羽村から四谷大木戸に至る延長10里(40㎞)余りの人工河川である。四谷大木戸の第一章 東京水道100年の概観【Chapter 1】Overview of 100 Years of Tokyo Waterworks
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