東京都尖閣諸島現地調査 調査報告書(抜粋版)
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尖閣諸島は、南西諸島西端に位置する魚釣島、北小島、南小島、久場島、大正島、沖ノ北岩、沖ノ南岩、飛瀬などから成る島々の総称。八重山群島の北北西約170kmに位置し、東経123度28分から124度34分、北緯25度44分から25度56分の間に点在する。また、平成24(2012)年3月に「海洋管理のための離島の保全・管理のあり方に関する基本方針」に基づき、内閣官房総合海洋政策本部が久場島と大正島付近の4島の名称を、北西小島(沖縄県石垣市・久場島)、北小島(沖縄県石垣市・久場島)、北東小島(沖縄県石垣市・久場島)、北小島(沖縄県石垣市・大正島)と決定している。 歴史的には、明治18(1885)年以降日本政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行い、単に尖閣諸島が無人島であるだけでなく、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上、明治28(1895)年1月、現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行って正式に日本の領土に編入することとしたものである。爾来歴史的に一貫して我が国の領土である南西諸島の一部を構成している。 明治29(1896)年には、尖閣諸島で漁業等に従事していた沖縄県在住の民間人に対し、尖閣諸島における国有地借用が許可された。この民間人は、この政府の許可に基づいて尖閣諸島に移民を送り、鳥毛の採集、鰹節の製造等の事業を経営した。最盛期には200名を超える島民が居住したこともあったとされる。 サンフランシスコ平和条約においても、尖閣諸島は、同条約第2条に基づき我が国が放棄した領土のうちには含まれず、第3条に基づき南西諸島の一部として米国の施政下に置かれた。 一方、尖閣諸島が米国の施政下にあった昭和43(1968)年、国連アジア極東経済委員会(ECAFE)の沿岸鉱物資源調査報告において、東シナ海での石油埋蔵の可能性が指摘された後、昭和46(1971)年に中国及び台湾が領有権を公式に主張した。 同年6月の沖縄返還協定により、尖閣諸島を含む沖縄の施政権が返還された。なお、昭和47(1972)年、日米地位協定に基づき久場島と大正島が米軍施設・区域とされた。 平成14(2002)年4月以降、魚釣島、北小島、南小島の3島を「平穏かつ安定的な維持・管理」のため国が地権者から賃借している。しかし、その後も中国人活動家が魚釣島に上陸する、尖閣諸島沖で中国船が海上保安庁の巡視船に衝突するといった事件が発生している。 5 尖閣諸島について -4-

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